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天下りを嫌った兼好法師と、平安時代のリテラシーと現在のリテラシーの違い

 60歳の時、わずか3週間で完成した私の小冊子 『徒然なき人生』 が本稿で 「徒然泣き!人生」 と変わり、その副題が 「一職業会計人の “軒昂奉仕“」 と何故なったのか。もともとは徒然なるがままに、気楽な人生を送りたいと願いながらも、逆の人生になってしまい、泣きが入っているからなんです。
 指折り数えて、待ちに待った65歳を迎え(先月号でも紹介した「もういくつ寝ると」を参照)、ますます、人生楽しくなってきていますが、今月は、70歳まで独身だった “軒昂奉仕” ならぬ徒然草の 「兼好法師」の生き方と、平安時代と現代との男の必須科目 (リテラシー) について思いを馳せてみたいと思います。

 
 

1、「つれづれの時間」と学問の関係

 
「徒然草」 は高校時代の授業で一部分のみ読まされた記憶があるものの、全体を読んでないことに気づきました。
 そこで今から4年前の平成18年、「徒然なき人生」 の忙しすぎる時間帯の合間にできた5月連休の 「つれづれの時間」 を利用して読んでみました。
 もっともその年の5月連休は、100年ぶりに改正された 「会社法」 の勉強と研修会講師のレジメ作成に追われていたので、真の意味での 「つれづれの時間」 とは言えないのかもしれません。
 しかし、ギリシャ語の 「スコレ(Schole)」 は 「暇(leisure)」 の意味で、後に 「学校(school)」 を意味するようになったといいます。
 つまり学問 (今では仕事の為の知識の仕入行為) をするということは、「つれづれ」 に通じるわけですから、5月の連休に会社法979条を読む羽目になったと嘆くのではなく、徒然なる人生を送っているのだと考えれば、慰めになると気を取り直したんです。
 
 
 

2、兼好法師はなぜ、高級官僚を途中でやめてしまったのか?

 
(1)子供時代から成人までの兼好法師 
 官僚としての出世コースを登りつめていた兼好法師たる 「ト部兼好」 は、30歳にして官僚生活に見切りをつけたんですね。昔は大蔵官僚や、通産官僚が途中退職して政治の世界に入っていく事例は沢山ありましたが、当時の時代背景の場合は、どのような心境だったんでしょうか?通産官僚から作家に転じた堺屋太一氏に兼好の心境を代わって尋ねてみたいです。
 兼好が天才少年であったことは、徒然草第二百四十三段もみるとわかります。
 
 (第二百四十三段) 父と問答の思い出 ―八つになりし年―
 
 この段(最終文) を読むと、兼好法師は子供の頃から頭脳明晰で論理的な子供であったことがわかります。「仏とはどんな存在で、どうやってなるのか」 と兼好に問い詰められて答えられなかったことを父親が子供の自慢話として語っている様子を徒然草の最後に書くことによって、執筆時50歳の兼好は、自分は子供のころから変わっていないということを言いたかったのでしょうか?
 兼好(けんこう) の名は出家後の法名で、作者の姓名は 「ト部兼好」 (うらべかねよし)といいます。役人生活を経て30歳頃出家しているものの、
 
  • 10代後半には、その娘が天皇の母后となった役人付きの事務管理職。
  • 19歳の時、天皇秘書官。
  • 25歳で左兵衛佐(さひょうえのすけ)。
    (兵衛府は警察庁と総務省を兼ねたような部門だろうか ―― 左兵衛佐は兵衛府の次官。佐(すけ)の上は督(かみ)に昇進)

と、官僚として順調すぎるほどのキャリアを歩んでいます。それが、後二条天皇が24歳の若さで崩御してから数年後、地位と名誉を保証された官僚体制から飛び出して、世捨て人になっています。この経歴は宮沢喜一元首相に匹敵するんでしょうか?

 
 
 
 
 
 
 

渡辺俊之 軒昂奉仕

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