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スペシャルインタビューSPECIAL INTERVIEW

 

他者の喜びを、自分の喜びに
プロレス界を牽引したエースの道程

 
低迷期であった2000年代の新日本プロレスを立て直し、誠実なプロモーションで支えた棚橋弘至氏。ブーイングが増えていく逆境の中、古き良き団体の伝統を下地に独自のスタイルを追求することで、時代に合わせた新たなプロレスラー像を確立させた。ファンと新日本プロレスを愛し続けた同氏のキャリアを辿るとともに、その根底にある哲学を語りつくしてもらうインタビュー。
 
 

新日本プロレス入門への道

 
岐阜県大垣市に生まれた棚橋さん。小学校から高校までは、プロを目指して野球に打ち込む毎日を送っていたという。
 
「高校時代まではプロ野球選手になりたかったのですが、普通の公立高校で、レフトの7番という状態でしたから、現実的に難しいなという思いがあったんです。しかし高校球児というのは、難しいとわかっていても甲子園を目指したくなるもの。部活一筋で夏の大会まで、全力で駆け抜けました。その後に何をしようかと思った時に、『プロ野球選手になれないのなら、業界に携われるような新聞記者になろう』と考えたんです。部活を引退して半年しか時間が残されていませんでしたが、それからは必死に勉強しました。それで、立命館大学に入学しまして。当時は、サークルでもいいから野球を続けようと考えてはいました。しかし、ふとしたきっかけでプロレス同好会の紹介ブースを見学した際に、『この同好会からプロレスラーになった人はいるんですか?』とメンバーの方に尋ねてみると、『おるぞ!』という明るい声が返ってきたんです。その言葉を受けて、プロレス同好会の延長線上にプロレスラーという選択肢があるのだと、未来が広がったような気がして、心機一転、プロレス同好会に入ったんですよ。後から聞いてみると、実はその同好会からプロレスラーになったのは、僕が1人目だったそうです(笑)。この嘘がなければ、棚橋弘至というプロレスラーは生まれていませんから、『世の中にはついていい嘘があるんだな』と、身を持って感じました」
 
その後1998年に、棚橋さんは3度目の入門テストを受けて合格を果たし、新日本プロレスに入門する。2度の不合格を経験しても、自分を信じて、諦めずに努力を積み重ねた日々はどのようなものだったのか。
 
「新日本プロレスの入門テストを初めて受けた時は、全てのメニューをこなすことができたのですが、結果は不合格だったんです。ですから後日、滋賀で大会があった際に、レフェリーや売店の方へ、『入門テストのメニューを全部できたのに、不合格は納得できません。もう一度、テストを受けさせてください』と直談判し、1人で特別にテストの機会をいただきました。ですが、前日の練習からものすごい高熱にうなされて、体調不良のままテストを受けることになってしまい―結局全てのメニューをこなせなかったんです。でも、このままでは諦めきれない。その思いで3度目のテストを受け、ようやく合格をいただけたんですよ。この時は、なんとか現役選手に追いつきたい一心で、大学を辞めてすぐに入門しようと考えていました。しかし、長州力さんに『お前大学3年生か。なら卒業してから来い』と言われて、入門を1年待ってもらうことになったんです。ただ、僕はあまり単位を取っていなくて(笑)。4年生になった時には、卒業にあと58単位も必要だったんですよ。4年時で取れる単位は最大で60までなので、2つ落とせばアウトという、本当にギリギリの状況でした。それでも、皆が就職活動に集中する中、一生懸命勉強して、卒業することができましたよ。同時に、僕と同じテストで受かった選手は1年先に入門しているわけなので、その人たちにも負けないよう、体重を10kg増やし、90kgまで増量もしました。アルバイトも並行してやっていて、祇園のクラブで、黒のベストを着て蝶ネクタイを締め、ドリンクを運ぶ仕事もしていたんです。勉強に増量にアルバイト。もう一度あの1年をやれと言われても、二度とできないと思います(笑)」
 
 
 
 
 

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