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スペシャルインタビューSPECIAL INTERVIEW

 

「応援してくださったファンの方々へ
最上級の感謝を伝えたかったんです」

 

地に足を付け、縁をつなぐ

 
大学卒業後の1999年4月に晴れて新日本プロレスへの入門を果たした棚橋さん。入門してから僅か半年後に、真壁伸也(現:真壁刀義)選手を相手にデビュー戦を飾る。その後は怒涛の追い上げを見せ、U-30無差別級王座を奪取。そして2006年にはIWGPヘビー級王座の初戴冠を果たした。この時に初めて口に出し、以降も棚橋さんの決め台詞となった「愛してま~す!」という言葉には、どのような思いが込められているのだろうか。
 
「僕が初めてチャンピオンになった当時の試合は、実は本来の対戦相手が来れなくなり、急遽トーナメント形式でカードを決めることになったんです。タイトルマッチのメインカードが決まっていない大会なんて、本来ならばあり得ません。にもかかわらず、トーナメントを勝ち抜いてチャンピオンになった時、観客の皆さんがフェンスに駆け寄って祝福してくれたんです。こんな状況なのに、応援してくださるファンの方がいることが本当に嬉しくて、感謝の気持ちを込めて『愛してます』と言葉にしました。だから、僕の『愛してます』は『ありがとう』の最上級で、Loveではなく、Thanksの意味を込めているんですよ。また、これまでの新日本プロレスでは、いつも『1.2.3,ダー!』が締めの台詞でしたが、この『愛してま~す!』の発言を続けていく中で、メインイベントを制した選手が各人オリジナルの決め台詞で締めるマルチエンディングスタイルに変わっていきました。そうなると、ファンの方も、自分の好きな選手に締めてもらいたいから、自然と応援しますよね。だからこそ、そこに熱量が生まれます。そうした風土が根付いたのは、団体にとっても良かったと思いますね」
 
2000年代は、総合格闘技などの台頭により、プロレス界全体がその勢いに呑まれてしまう。新日本プロレスの中でもスター選手が退団する事態が続き、人気が下り坂になってしまっていた。棚橋さんはそうした苦境の中、どのような活動を続けていたのだろうか。
 
「当時は新日本プロレスが低迷していた時期で、特に2006年から2007年頃に大きな打撃がありました。その中で僕が取り組んでいたのは、とにかくさまざまな場所に自分の足で訪れ、プロモーション活動を行うことです。新日本プロレスの興行は、1年にだいたい150試合あり、月の半分が試合で、残り半分が休みというスケジュールでした。僕はこの休みの半分も、練習だけではなく、プロモーションに使おうと考えたんです。チャンピオンベルトを持って日本全国を渡り、地方のラジオ局やタウン誌、新聞など幅広い媒体にとにかく出させていただきました。プロモーションにおいて特に意識していたのは、単純に大会の告知をするのではなく、まずは僕という人間を知ってもらい、理解してもらうことです。着実に、そして地道に、地に足を付けてコミュニケーションを取っていく。すると、最初はプロレスに興味はなくとも、僕という人間に興味を持ってくれた方が少しずつ増えていき、自然と応援に来ていただけるようになったんです」
 
 

伝統を守り、外面を変える

 
棚橋さんはIWGPヘビー級王座を初戴冠した当時から、新日本プロレスに根付いていた武骨なイメージとは異なる、明るく華やかなキャラクター像を確立していた。そのためか、団体の伝統を重んじるファンからの風当たりは強かったという。団体の歴史や慣習とは異なる路線を進んだことには、どのような背景があったのだろうか。
 
「僕はあくまでも、リング上の外面だけを変えたかったんです。道場ではしっかりと日々のメニューをこなして、身も心も仕上げていきます。ただ、従来やってきたことを単純に続けていくだけでは、団体の低迷は避けられない。現状維持でビジネスが下がっていったのだから、これまでプロレスを見てこなかった方にも興味を持っていただけるような、外面的な変化が必要だと思いました。だからこそ、「愛してま~す!」という決め台詞やエアギターなど、これまでの団体にはなかったイメージを持ち込んで化学反応を起こそうと考えたんです。派手なキャラクターを形づくったうえで、リング上での戦いには古き良き伝統を残し、練習で培った色濃いものを打ち出していきたいという思いでした。ビジュアル的にはチャラいですし、そうした過度なアピールに、『新日本を壊すな』というファンの方の反感もありました。しかし、一度去ったファンに再び戻ってもらうことは難しいと思います。それならば、今までプロレスを見たことのない方に戦いを届けて好きになってもらいたいと思いました。僕は高校時代にプロレス中継を見てプロレスを好きになって、生きるのが1000倍楽しくなりましたから、その感動をより多くの方に伝えたかったんです。とにかく、その一心でした」
 
棚橋さんは従来のイメージに親しんでいたファンからの批判にさらされても、新日本プロレスを盛り上げたい一心で独自のスタイルを貫き続けた。そして、2011年には5度目のIWGPヘビー級王座を戴冠し、以降11回の連続防衛を果たす。破竹の勢いの中で、棚橋さんが大切にしていた価値観や立ち居振る舞いについてうかがった。
 
「少し先の未来をイメージするということは、ずっと続けてきました。ずっと目標にしてきたのは、満員の東京ドームです。そのうえで、直近の目標として、年々少しずつ増えていく会場の動員を思い描いていました。常に最終的なゴールをイメージして、そこから今自分がいる立ち位置まで線を引っ張っていく。このように最終的な目標を設定しておけば、今やるべきことが明確になって、一歩ずつ全力で走ることができるんですよ。そうすれば、一つひとつの段階において最適な行動を取ることができると考えています」
 
そんな棚橋さんの連続防衛記録は、2012年に凱旋帰国したオカダ・カズチカ選手との試合に敗れ、ストップすることとなる。この出来事はオカダ・カズチカ選手のキャッチコピーから“レインメーカーショック”と言われ、ファンの中で衝撃的な一幕となった。そうして長らく王座を守り抜いた棚橋さんに、チャンピオンベルトがプロレスラーにとってどのような意味を持つのかうかがった。
 
「チャンピオンベルトは、一言で言うと、リレーのバトンのようなものです。チャンピオンが受け取ったベルトを保持したまま全力疾走して、次にそれを奪った新たなチャンピオンが再び走っていく。チャンピオンベルトの奪い合いというのは、その繰り返しです。チャンピオンが自分のベルトをかけて必死に走るからこそ、それが団体全体のエネルギーになっていくのだと思います。その結果として、団体の歴史はつながっていくんですよ。そういう意味でも、チャンピオンベルトは、ベテランからヤングライオンまで、全員が目指すべき象徴です。プロレスに興味がない方でも、チャンピオンベルトを持っている選手がいれば、『この人が一番強いんだ』と目に見えてわかりますよね。このように、プロレス界とそれ以外の世界をつなぐ通行手形のような役割も果たしていると思っています」