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かつて“天才”と呼ばれた日本人ライダー・宮城光氏が語るオートバイレースの世界。チャンスを掴み、トップチームとの契約に至った宮城氏が、いよいよ挑む1994年シーズン。ツーブラザーズ・レーシング改め、エリオン・レーシングでの初陣は、多くのバイカーたちが集い、数々のレースイベントが行われる「デイトナウィーク」──。
 
 
 1994年2月、カリフォルニア・アナハイム。ホンダのウイングマークと、ツーブラザーズ・レーシング改め、エリオン・レーシングのロゴマークとで美しく彩られた、新車のトラックとトレーラーを、私は感心するやら、あきれるやらといった気持ちで見つめていた。
 
 1993年シーズンの最終戦、デイトナで行われたAMA・チャンピオン・カップ・シリーズにおける75台抜きという実績が認められて移籍したツーブラザーズ・レーシングは、チーム経営者であるクレッグ・エリオン、ケビン・エリオン兄弟が袂を分かったことで、あらたにエリオン・レーシングとして再スタートを切っていた。
 チームの財産であった機材やファクトリーなど、レースに必要な物のほとんどは、兄のクレッグ・エリオンのものに。弟であり、新生エリオン・レーシングのオーナーとなったケビン・エリオンには昨シーズンのマシン──これは、1993年シーズン終了後、どこかのレーシングチームに、かなりいい金額で売られていったと聞く──をはじめとしてわずかな資産だけが残った。新しいファクトリーの中は、当然ながら、がらんどうである。だというのに、チームのスタッフは、整備や開発に必要な機材をファクトリーへと運び込むのもそこそこに、真新しいトレーラーを、誇らしげに磨き続けているのだ。
 
 そんなことに金や時間をかける余裕があるのか、というのが愚問であることを、アメリカレース界で2年目を迎える私にはわかっていた。これは、ホンダやブリヂストンといったビッグスポンサーの看板を背負っている以上、そして、レースファンの視線を集めるトップチームである以上、美しく、期待される存在でなければならないという、アメリカの「ショービジネス」に生きる者としての流儀だったのだ。彼らは勝てるレーシングバイクを作り上げるのと同じくらい、「どう見られるか」ということにもコストをかけるのである。
 
 

「完璧なシーズン」への期待

 
 私は、昨年までの「スーパースポーツ600」クラスに加え、この1994年からは、新たに「アンリミテッド・チーム・チャレンジ」というクラスにエントリーすることになった。
 これは、「アンリミテッド」の名の通り、今では考えられないような「排気量、改造範囲無制限」のマシンがしのぎを削り合う、実に豪快で「『ナンバーワン』のものが好き」なアメリカらしいクラスだ。モデルチェンジして戦闘力を増した1994年型・ホンダCBR900RRは、エリオン・レーシングによるチューンナップが施され(トレーラーを磨いてばかりいたわけではないのだ)、私とホンダとのコネクションを活かし、カーボンブレーキをはじめとしたいくつかのスペシャルパーツが奢られた。これを、チームメイトのトミー・リンチとシェアしながら、3時間のセミ耐久レースに挑むのである。
 
 「新生エリオン・レーシング」同様、私のビジネスを成功させるための、「宮城光」という「主力商品」も我ながら魅力的に仕上がった。
 何から何まで肌に合わないテキサスから、さんさんと太陽が輝くカリフォルニアへと移住し、そこで様々な文化に触れることで心にはゆとりが生まれていたことに加え、トレーニングも欠かさず行っていたことでフィジカル面もさらに充実していた。 
 エリオン・レーシングのカラーリングに合わせて、パーソナルスポンサーである南海部品にオーダーした新品のレーシングスーツは、チャンピオンマシンであることを意味する「ゼッケンナンバー1」のマシンとのマッチングも完璧だと思えたし、SHOEIから提供された帽体には、著名なペインターであるトロイ・リーが私のためのスペシャルペイントを施してくれた。私がずっとともに歩んできたホンダのロゴマークであるウイングマークに、新天地・アメリカのレース界とレースファンへのリスペクトを込めて星条旗を組み合わせたデザインは、ため息が出るほどに美しかった。
 完璧なシーズンになるという自信があった。
 
 
 
 
 
 
 
 

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