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今、“かっこいい” ビジネスパーソンとは
第3回 引き受ける力

 
 
 ということは、地域住民に政治を 「引き受ける」 能力がないなら、もはや社会は回らないのです。国内社会が回らないだけでなく、先ほど述べたように 「風の谷方式」 をベースにした実績を背景にしない限り、国際社会でも日本がポジションを維持できなくなります。ところが 「引き受ける」 能力は、経験の積み重ねでしか身に付きません。時間がかかるのです。
 従来の 「どこに陳情すれば良いのか」 という依存方法の選択でなく、「自立した経営事業体として 〈郷土〉 を復興するには我々のリソースをどう組み合わせれば良いのか」 という自立方法の選択こそが肝心です。でもリソースをどう組み合わせれば良いのかのソリューションを導くのは大変。試行錯誤して行動形態から権力構造まで変える必要があります。
 このことをどれだけ深く理解しているかが大切です。「国は何をやってるんだ!」 と噴き上がっていれば済んだ時代はとうに終わりました。「どのみち国に大したことはできやしない」 ということを弁えた上、「自分たちでやるしかないんだ!」 という共同体的自己決定へと ――風の谷方式へと―― 地域住民が果敢に乗り出す以外に、方途は一切ないのです。
 
 


内側の〈空気〉が変わるには

 
 ところが多くの人々は、まだ日本は旧来のシステムにぶら下がって前に進めると思っています。典型例がCO2排出量の25%削減への抵抗です。環境問題は科学的真理を巡る闘争じゃない。国際政治のゲームです。日本も、国際政治の流れを見る限り十年後にはこういうゲームになるだろうという所から逆算して、十年後にポジションを失わないために今何をすれば良いかを考えるべきです。
 こういう考え方を 「バックキャスティング的思考」 と呼びます。他方、今営まれるゲームでのポジションを維持するにはどうすれば良いかという考え方を 「フォアキャスティング的思考」 と呼びます。環境の限界や資源の限界が 「待ったなし」 という認識が共有された現在、バックキャスティング的思考にシフトできないと、日本は確実にポジションを失う。
 理念を持つ人の発言より、権益を持つ人の発言のほうが尊重されるようでは、フォアキャスティング的思考からバックキャスティング的な思考にシフトできません。シフトできない限り、「風の谷方式」 つまり各地域の共同体的自己決定の実績の積み上げで内政を変え、変えられた内政をベースに外交で影響力を行使するということが、できなくなります。
 不幸なことに戦後日本は、共同体的自己決定の実績の積み上げによって内政を変えた経験がありません。内政の変更はすべて外圧によるものです。戦後日本の内政は 「外圧の連鎖」 で動いてきました。[ アメリカの決定 → に基づく中央政府の決定 → に基づく地方自治体の決定 → に基づく地域住民の決定 ] という決定連鎖の中で、内政を進めてきました。
 この 「外圧の連鎖」 の中で、地域住民は戦後60年間も思考停止状態を続けてきました。だから、国際的にも国内的にも 「外圧でしか動けない」 のは仕方ない。この状態を変えるには、山本七平の言う 〈空気〉 を変える必要があります。山本七平によれば 〈空気〉 の変化は、「なまなましい現前性」 が必要です。この点について、実は僕はそれほど悲観していません。
 というのは、長い目で見れば、「外圧の連鎖」 でしか内政を動かせない国は国際的影響力が持てないということが必ず明確になりますから、国際的影響力を完全に失ったという現実が外圧になって(笑)、〈空気〉 が変わる時が必ず訪れるでしょう。しかしその場合、共同体的自己決定をベースにした自発的な内政の変革に比べて、5年から10年遅れます。
 コスト削減と品質向上をベースにした大量生産時代から、イノベーションをベースにした比較優位領域での一点突破的なポスト大量生産時代へと、既にシフトしている現在では、内政の変革が5年から10年遅れることは、ものすごい巨大なハンディキャップを負うことを意味します。だとしても、5年から10年遅れることは、仕方ないという他ありません。
 
 


たとえ日本が沈んでも意気消沈する必要はない

 
 「任せる政治から引き受ける政治へ」 つまり 「自分たちでやるしかない」 という共同体的自己決定の重要性は政権交代前から明白でした。[ 米国の決定 → に基づく国の決定 → に基づく自治体の決定 → に基づく住民の決定 ] という依存図式では国際的ポジションを保てないことも明白でした。政権交代の結果、単に明白なことが明白になっただけだと思います。
 何が明白になったのかと言えば、(1) 僕たちはそう簡単に変われないこと、そして (2) 変われない限りは確実にポジションを失うこと、従って (3) ほぼ確実にポジションを失うことが明白になったのです。だから意気消沈してしまうのも尤もです。でもそれはクダラナイ。だから以前、クリント・イーストウッド作品に見られる右翼的な生き方を紹介したのです。
 ここでいう右翼とは、社会主義左翼や再配分左翼を否定するという意味じゃない。社会主義や再配分を主張する右翼など戦前にはゴマンといました。ドイツのナチスだって正式名称は 「国家社会主義労働者党」 です。だったら、右翼とは、国家主義者のことを言うのか。それも違います。かつての東側社会は例外なく国家主義的でした。では、何なのか?
 答えましょう。人は、理不尽や不条理を前に、超越的なもの (絶対的な神や、神格化された人間や、不変の真理や、巨大な国家) に依存しがちです。これに対し、神や神格的人間や真理や国家に依存するのでなく、「理不尽や不条理に身を晒しつつ前進する理解を越えた存在」 を肯定するのが、真の右翼です。難しく言うと、主知主義が左翼で、主意主義が右翼です。
 教育で言えば、「分かる喜び」 や 「勝つ喜び」 よりも、(スゴイ存在に)「感染する喜び」 を重視するのです。だから、戦前の右翼は、国家に恭順したのでなく、天皇に感染して世直しを主張したのです。三島由紀夫が徴兵制や愛国教育 (例えば国旗国歌強制) に反対したのも同じです。彼によれば、強制は 「優等生病」 や 「一番病」 のエゴイズムを生み出すのです。
 戦前の徴兵制や愛国教育が愛国者を生み出すことに成功したのなら、なぜ戦後一夜にして 「アメリカさんありがとう」 になったのか。つい最近まで思考停止の対米追従が当たり前だったのか。三島由紀夫はそうした事実を見通していました。強制が 「オレが一番先に強制に従ったんだぞ」 という権威拝跪の競争を生み出すだけという事実を知っていたのです。
 
 


社会的包摂と「小さな政府・大きな社会」

 
 戦後日本ではこうしたことが分からなくなったので、仕方なくイーストウッド作品を使って 「全ての理不尽や不条理を引き受けて前に進む生き方」 を紹介しました(09年7月、10月号参照)。この生き方にとって 「ウマクいくかどうか」 は第一義の問題じゃない。後続世代を感染させることによって結果的に文化的DNAを残せるかどうかという問題です。
 文化的DNAは、強制によってでなく感染によって伝達されます。感染はスゴイ人から普通の人へという方向です。感染した普通の人がスゴイ人になって次の感染を生みます。こうした 「感染の連鎖」 は人と人の関係を通じて展開します。相互扶助に基づく社会的包摂の重要性を言うときにも、この話が決定的に重要です。僕はそれを繰り返し言ってきました。
 社会的包摂を保つとは 「小さな政府と大きな社会」 とも言い換えられますが、人と人との関係を通じて 「感染の連鎖」 が生じる可能性を温存することです。国家に助けてもらうよりも人に助けてもらうことが大切なのです。人に助けてもらうことで感染した自分が、人を助ける存在になることが大切なのです。こうした感染の連鎖を尊重しなければなりません。
 
 
 
 

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