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スペシャルインタビューSPECIAL INTERVIEW

仕事を楽しむ最大のコツは、夢を持ち、
志を抱き、失敗を恐れず、楽しみ続けること

 
 
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 実は私ね、子供のころから、何かしら商売の真似ごとのようなことはやっていたんです。例えば、知り合いから納豆を格安で仕入れて、別の場所でそれを売ると当然利益が出るわけです。普通の子供ならそれを小遣いとして使ってしまうことが多いと思いますが、私はそれをしませんでした。別に高尚な考えがあったわけではありません。「このお金を元手にすれば、倍の納豆を仕入れられるじゃないか」。つまり、自分が行動することによって、モノがおもしろいように売れていくことが、ただひたすらに楽しかったのです。いわばゲーム感覚とでも言えるかもしれませんね。
 本格的に “商売ゲーム” に目覚めたのは、高校1年生のとき。うちの近所にルノーを所有しているお宅があったのです。納屋にほったらかしにしてあって、ほとんど乗っていないので埃をかぶっていた。「せっかくの高級車がもったいない」 と思った私は、売ってもらえないかと話をしたのです。当時、ただでさえ車は夢の世界の乗り物で、さらにルノーなどという高級車は、私たちにとってはとてつもない宝に見えた。
 オーナーの返事はNOでした。常識的に考えれば、ここであきらめるでしょう。しかし、私がやっていたのは “商売ゲーム” です。断られてからがスタートなのです。しつこく7~8回ほど通って、3万円で手に入れることができたのです。
 
 
 
――もともと服や時計、アクセサリーなどにはそれほど興味がなかった羽鳥氏。なんと、3万円で購入したルノーを整備し、26万円で他者に売ることができたのだと言う。当時の会社員の平均月収が7000円だった時代、高校生が手にする金額としては破格の金額だ。それをもとに、羽鳥氏は、またしても新たな “商売ゲーム” を始める。それがボート屋だった。
 

お金が動くことがひたすら楽しかった

 
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 そのころの遊覧船業界も、これまた下手な商売をしていましてね(笑) 団体予約でなければ受けず、「乗りたければ人を集めてこい」 という高飛車なものでした。ですからルノーの元手で一艇の遊覧船を購入し、ひとり500円で8人集まったら船を出すというふうに、乗船券のバラ売りを始めたんです。つまり1回の出港が4000円。これはかなり大きかったですね。お客さんがグループを組む必要がないので、もちろん高い金額かもしれませんが、割と気軽に申し込んでくれましたから。それが高じて、高校2年の時に2艇目、3年の時に3艇目を手に入れていましたね。そんな高校生、なかなかいませんでした(笑) それでも、私は別にお金そのものが欲しかったわけではなかった。
 別のケースでは、りんごの販売なんかもやっていましたね。同級生にりんご園を実家に持っている人がいましたので、商品にならないりんごを大量にもらったわけです。それをオート三輪で取りにいって山ほどもらい、団地や病院で売りさばくわけですよ。「産地直送のりんごです!」と言ってね。もちろんそれはウソではありません。すると病院なんかで、もう飛ぶように売れるわけですよ。自分が動けば動くほど、お金も人も動いていく。こんなに楽しいことはなかったですね。
 
 本格的な実業家デビューはもっと後になります。義理の兄と羽鳥総業という会社を立ち上げたんです。でも、そこは下請けでしたから、商売の面白さを味わうにはいろんな改善策が必要でした。とにかく、下請けだから儲からないんですよ。どれだけ夜遅くまで頑張ったとしても、自分の意志と力で売上を伸ばすことができないのが下請けの運命。やはり直接お客さんとつながるような商売の仕方をしないといけないということで、ひとまず懸架重量7トンのクレーン車を一台購入しました。で、朝5時に起きて、道という道をパトロールする。するとね、ガードレールにぶつかった車とか、田んぼに落ちてしまった車とか、手がつけられなくて困っている車があちこちにあったのです。それを拾い上げて、お客さんからクレーン代をいただいていたのですが、やがてはトラックなどのような大物の依頼も飛び込んでくるようになりました。最後には25トンまで対応可能なクレーンを入れて、重機を中心にクレーン業を広げていったほどですから。
 ですが、我々の甘さが出てしまったのか、詐欺に遭って会社が倒産してしまったのです。
 
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 倒産してもブラブラ遊んでいるわけにいきません。やはり何かしら商売をしないといけない。そのときに、高校生のころのルノーの話を思い出し、「そうだ、原点はやはり中古車だな」 と一念発起し、ガリバーの前身となる会社の設立に突き進んでいったというわけです。
 
 中古車を扱い始めてから、改めて素晴らしい可能性を秘めた業界だと認識しましたね。年間で7900万台もの中古車が存在し、良質な車もたくさんある。それなのに業界が悪く見られていた。なんとかしないともったいない。これを変えられるのは自分しかいないと思ったのです。魅力的なマーケットを前にして、心が弾みました。
 
 
 
――羽鳥氏の人生が急転し始めたのが、昭和51年の10月。つまり、ガリバーの前身会社である東京マイカー販売の創設時だ。しばらくは暗中模索の状態が続いたが、やがて評判が評判を呼び、昭和52年の1月から飛ぶように車が売れるようになっていったという。その数、月間50台。ひとりのマンパワーで販売するにしては、物理的に無理がある台数だ。だが、羽鳥氏は数カ月、その状態をひとりでこなしきったという。
 
 

遺伝子のスイッチをオンにする

 
 人間、追い込まれるとものすごくパワーが出るものなんですよね(笑) これは私が社員たちにいつも言っていることなのですが、人間の遺伝子にはオンオフのスイッチがあるんです。ほとんどの人はそれをオフのまま過ごしている。でも、オンになったら、潜在能力が発揮され、常識では考えられない働き方ができるようになるものなんですよ。当時の私は、まぎれもなくオンでした。
 
 
 

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