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スペシャルインタビューSPECIAL INTERVIEW



プロフィール 1972年7月14日、イタリア ナポリ出身。料理人だった父に影響を受け、11歳の時に料理の道を志し、伯父のレストランに入門。日本とイタリアを行き来しつつ修業を重ねる。父から学び、受け継いだ本場ナポリの味“ナポリピッツァ”を日本で一躍有名にしたパイオニア。近年は活躍の場を日本だけでなく世界へと広げ、2006年にはイタリア政府公認の「真のナポリピッツァ協会」が主催するナポリピッツァにおける世界最高峰の大会「PIZZA FEST」でピッツァ サルヴァトーレ クオモチームが優秀賞を受賞。2007年には海外1号店の中国、上海にある「The Kitchen Salvatore Cuomo SHANGHAI」がShanghai Tatler誌発行のレストランガイド「Shanghai’s Best Restaurants 2007」のイタリア部門に選ばれる。世界に認められた今でもなお、彼は『ナンバーワンではなくオンリーワンであること』を目指している。
 
 
――「ピザ」ではなく「ピッツァ」。ファストフードスタイルのアメリカンピザに親しんできた日本で、バブル期以降、ナポリピッツァは急速に広まった。持ち込んだのは、日本にも造詣の深いサルヴァトーレ・クオモ氏。氏の軌跡を追いつつ、経営者としての発想について語ってもらった。
 
 
 

料理人ではなく職人としての道
ナポリの味を日本へ

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 実は、ぼくはもともと東京の生まれです。1969年、ある意味で現代日本のターニングポイントとなった年に、父が日本に来て店をしていた。ぼくはその3年後に生まれたのですが、生まれてすぐに父の仕事の関係で日本を離れ、ナポリで暮らすことになりました。当時、父のようにイタリアを離れて日本で活動する料理人は珍しかったようです。
 ぼくが料理の世界に入ったのは11歳のころ。日本ではまだ小学生の年頃ですが、イタリアは小学校が5年制だから、一応中学生にはなっていました。それでもやっぱり早いね(笑) ぼくは、父が料理人兼経営者だったし、伯父も料理の世界にいた。彼らの姿を身近に見てきただけに、料理の世界へは強く興味を持っていました。だから、年齢は確かに早かったものの、料理の世界に飛び込むのに迷いはありませんでした。
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2006年のPIZZA FEST テクニカル部門において
最優秀賞を受賞したピッツァ “D.O.C”~ドック~

 本当の意味で料理に没頭していったのは、一番身近にいて、自分の目標とする料理人でもあった父が亡くなる前後のこと。父を超えたい一心で自分の腕をさらに磨くため、専門学校に入学したのです。北イタリアの専門学校で2年と少し学んだかな。
 ピッツァの勉強を先にしていて良かったと実感したのはその専門学校時代でした。料理人になってしまってから職人になるのは非常に難しい進路です。ひとつのことに深く潜り込んでいく職人の姿勢は、料理人にはなかなか理解できないですから。ぼくは先に職人としてピッツアを学べて、結果的によかったですね。だって、それだからこそ今のぼくがあるんだから。
 もちろん、職人の修業は料理人の修業以上に厳しかった。でも、その修業時代にピッツァの本質を体で覚えたことで、ピッツァ職人としての力が確実に備わりました。同時に、ぼくはだれよりもピッツァが好きなんだということに改めて気付けた。そう気付いてからは、同じ料理の道を歩む者として、父親に追い付き、追い越すという身近な目標がさらに具体的になりました。父が亡くなり、ある意味使命のようなものを感じて取り組みました。その成果が、日本でいま皆さんが召し上がっている「サルヴァトーレのピッツァ」なのです。
 
 
 
――1991年2月。サルヴァトーレ氏は、ひとりのピッツァ職人として、日本を拠点にしようと決意した。と同時に、氏は(株)ワイズテーブルコーポレーションの代表である金山精三郎氏と運命的な出会いを迎えることになる。出会いに恵まれてからのサルヴァトーレ氏は、日本でのナポリピッツァのパイオニアとして突き進んだ。
 
 

ナポリピッツァのパイオニアへ
そして経営者への目覚め

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 あれは19歳のときでした。当時、西麻布の星条旗通りにあるXEX(ゼックス/現restaurant omae XEX)に勤めたのですが、その時に金山さんとパートナーを組ませてもらったのです。そこでナポリピッツァを出したのですが、あれが日本で始めてのナポリピッツァだったんじゃないかな。最初6ヶ月くらいは彼のもとで仕事をして、その後いろんな店舗を見させていただいて、23歳で独立しました。金山さんは、ぼくの日本での父親みたいな存在だね(笑)。
 独立後は、ひたすら自分の理想の店づくりを進めました。ぼくたちが理想とする“ピッツァ”と日本のみなさんが当時イメージしていた“ピザ”は、かなりギャップが大きかったと思います。ファーストインパクトは相当のものだっただろうな。だって、ピッツァの概念がそもそも違う。それまでの日本ではアメリカンピザが主流だったのに、生地がモチモチとしていて、ファストフードではなくスローフードとしてのピッツァが出てくるわけだから。
 当時はピッツェリア兼リストランテとして中目黒に店をオープンしていましたが、オープンしてすぐに6ヶ月先まで予約が埋まるほどの人気になりました。1年以上先の予約をしていくお客様がいるなんてこともあったかな(笑)。嬉しかったよね。

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