「白鵬という名をもらい土俵に立った日。
それが地獄の道の始まりでした」
「地獄の稽古」と急成長
かつて同じ時代で活躍した2人の横綱、柏戸と大鵬に因んで「白鵬」という四股名をもらった白鵬氏。2001年3月場所で初土俵を踏み、番付に初めて名前が載った同年5月場所は3勝4敗で負け越し。そこから、力士としての壮絶な日々が始まったという。
「それまで相撲部屋にお客さんとしていた少年が、白鵬という名をもらって土俵に立つようになった。それが、地獄の道の始まりでした(笑)。何とか入門できたとはいえ力士としてはまだまだ体が小さかった私は、取り口もうっちゃりとか、手を取ったりはたいたりが多くて。もちろんそれは好んでではなく、不利な体勢からやむを得ずという展開ばかりでした。そこで、まずは体をつくらなければということで、ひたすら稽古に打ち込んだんです。稽古が始まって最初の20分は、毎回心臓が破裂するんじゃないかと思うほどきつくて、1日3回は泣いていました。稽古中はもちろんのこと、稽古が終わって夜布団に入った時も、“明日また稽古か”と思うと泣いてしまうんです」
キツさのあまり、稽古のことを想像しただけで涙が出る――常人の想像を絶する過酷さである。とりわけ、白鵬氏は他の力士とは比較にならないほど多くのぶつかり稽古を行い、通常は5分でもかなりの体力を削られると言われるところ、40分続ける日もあったそうだ。
「ぶつかり稽古はスタミナや相手を押す力という相撲の基礎的な能力が鍛えられるため、非常に有意義なトレーニングだと思います。ただ、何より重要なのは、ぶつかり稽古によって心拍数が急激に上がることで、体から成長ホルモンが出ることなんです。これは言うなれば“自然のドーピング”で、私が短期間で一気に体を大きくすることができたのは、間違いなくぶつかり稽古のおかげでした。また、“寝る子は育つ”ということわざがありますが、稽古後の私はとにかくよく寝ていました。寝返り1つ打たず同じ体勢で寝続けるものだから、先輩たちから『死んでいるんじゃないか』と心配されたくらいです(笑)。たくさん稽古をして、よく食べてよく寝る――当たり前のことですが、それを素直な気持ちで受け止めて続けられたからこそ、他人より早く結果を出せたのだと思います」
19歳、最初で最後の金星
肉体の成長に合わせて才能が開花した白鵬氏は、あっという間に番付を駆け上がり、2004年3月場所で十両優勝を果たすと、外国人力士としては史上最年少となる19歳1ヶ月で新入幕となった。その勢いはとどまることを知らず、同年11月場所には当時7場所連続優勝を達成するなど全盛期にあった横綱・朝青龍氏を破り、自身にとって最初で最後となる金星(平幕の力士が横綱に勝つこと)も獲得した。この金星には特別な思いがあったと同氏は語る。
「あの日の金星には、実はいくつか前段があるんです。始まりは2003年の冬巡業で九州を訪れた時のこと。屋外での山稽古をやっていると朝青龍さんがやって来て、“モンゴル相撲をやるぞ”と誘ってくださったんです。土俵がないこともあり、いざ始まるとなかなか勝負がつかなくて――どんどんギャラリーが増えていって、最後は横綱の圧力に屈して負けましたが(笑)、そこで“あれ、横綱と長く相撲を取れたな”と手応えを得ることができました。さらに翌年の6月、中国公演の上海場所で、初日に優勝した朝青龍さんと、2日目に優勝した私との優勝決定戦が行われることになって。土俵では朝青龍さんの気迫がすごすぎて目を合わせることもできず、立ち合いからあっという間に中に入られて技を掛けられてしまったんです。でも、体が柔らかい私がとっさに足を抜いたら、朝青龍さんが尻もちをついてしまい・・・。勝ちはしたものの“勝ってしまった”という感じでした」
本場所外とはいえ、白鵬氏は朝青龍氏に勝ったことはあったのだ。しかし、なかなか「勝った」という実感を得られない――そんな同氏の心持ちを変えたのは、故郷でのある生き物との出会いだった。
「その後、7月に一度モンゴルへ帰省した際、真っ白な野生の狼と出会ったのですが、薄青い目で“どこからでもかかってこい”と言わんばかりの表情が印象的で、その映像がずっと頭に残っていました。そうして、11月場所で再び朝青龍さんと相まみえた時、不思議と真っすぐ顔を見られたんです。“人の目はなんて優しいんだろう”と。そこで気持ちが落ち着き、今度はしっかり勝つことができました。このように私の中では長いストーリーを経て勝ち得た金星だったので、今でも自分にとっては特別な一番なんです」