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Vol.7 「ハーレー」は「アメリカ」

 
 
 レーシングマシンは、とにかく美しかった。特にオレンジ色の粉体塗装が施されたフレームはため息が出るほどの見栄えで(あまりに塗装が厚すぎて、エンジンの載せ下ろし等の整備に支障をきたすほどだ)、バーテルズの手がけるカスタムバイクのショーケースとしても不足の無い仕上がりだった。
 肝心のレーシングマシンとしてのパフォーマンスは・・・残念ながら私にとっては最初から最後までしっくり来ることは無く、また、チームのリソースの多くがボストロム兄弟に注がれたこともあって、あまり芳しい結果を残すことはできなかった。「いつでもトップを目指す」という私のポリシーと矛盾すると言われればそれまでだが、この年に関して言えば、レースの勝ち負け以上に得るものがあった。
 
 「バイクで生計を立てている」人間である私に、「バイク」という工業製品の枠では語りきれない、ハーレー・ダビッドソンの奥深さを教えてくれたのだ。
 
 

「ハーレー」を通じて「アメリカ」を知る

 
 すなわち、ハーレー・ダビッドソンは、「モーターサイクル」であると同時にアメリカの人々の「強くありたい」という想いを体現するものであり、長い歴史に培われた文法に則りつつも進化する「伝統工芸」であり、さらには、ヘルズ・エンジェルスのように、あまり表には出てこないアメリカの「暗部」に近い位置にも存在する。アメリカのあらゆるものと密接に関わる存在だったということだ。
 
 「アメリカ人」でひとくくりにするのも乱暴だが、それでも「ヒーローでありたい」と考えているアメリカ人は多い。父は子を守る強い存在でなければならないし、国としてもまたしかりだ(それが私たち「外野」から見て正しいものかどうかは、また別問題だ)。そんな人たちに支持される存在、それがハーレー・ダビッドソンだった。
 医者や弁護士、会社経営など、普段は「お堅い」業務に携わるたちが、自らのなすべきことをなした後、スポーツジムで身体を整え、余暇に「タフガイ」へと変身する。バーテルズ・ハーレー・ダビッドソンには、そうした顧客が数多くいた。アメリカとしての「ありたき姿」が凝縮された存在。私にはハーレー・ダビッドソンがそのように思えた。
 
 ハーレー・ダビッドソンのことを理解していくにつれ、ニューポートビーチの自宅の隣に住むカスタムビルダー、リック・クロストが手がけるカスタム・ハーレーも違う目で見えるようになってくる。
 現在も第一線で活躍し、テレビ番組等にも出演する彼の手がけるカスタム・ハーレーは当時から力強くも繊細で、見るたびに惹きつけられたものだが、職人が各々の感性を活かして命を吹き込み、「鉄の馬」という「アート」の領域にまで価値を高められる工業製品など、世界を見回してもそうそうあるものではない。
 日本に染め物や焼き物があるのと同じように、アメリカにはハーレー・ダビッドソンのカスタムがある。厳密に言えば言葉の意味が違うのは承知の上だが、それは、アメリカの「伝統工芸」でもあった。
 
 レースが終わってチームのメンバー全員でトラックに乗り込み、ファクトリーへと帰るのかと思いきや、向かい先が「仲のいいチームがレースをしているダートトラック場」のようなこともしばしばあった。
 「ハーレー」のあるところさえ存在すれば、広大なアメリカ大陸を東へ、西へ・・・この大所帯がひとかたまりで移動する様は、「レースの転戦」を越えて、まさしく「ツアー」。まるでサーカスか、旅芸人「バーテルズ一座」だ。私たちが「ハーレー」関係者だとわかるだけで検問の警察官は姿勢を軟化させ、人々はこぞって一座を歓待した。
 ホテルの部屋を数人の男でシェアしながらの旅路(のべ何日間、床で毛布にくるまったのか、わかったものではない。たぶん旅費節約のためだ)には正直なところ辟易したが、自らトラックのハンドルを握って全米を転戦していたとき同様、数え切れないほどの刺激と発見があったのは間違いない。
 
 
 それまでの栄光を全て失ってアメリカに渡ってきて以来、私が一貫して意識し、実践してきたのは「アメリカに根を張ったライダーになること」だった。ヘルメットのデザインに星条旗をあしらって彼らへのリスペクトを表したのもそうだし、多くの人に支えられて結果を残してきたことで、それも少しずつ達成できていたものと思っていた。
 だが、1993年から数えて4年目にして、それまで存在すら知らなかった「レース後のパーティー」に誘われたとき、結果を残し、存在を認められるだけでは十分でなかったことを痛感した。
 どんなメーカーのバイクでレースをしていようとも、アメリカの人々にとっては、すでに自明のものである「モーターサイクルはハーレーである」という事実。日本からやって来た私がこれを真の意味で理解するには「ハーレー・ダビッドソン」に乗る必要があったし、ここまでやって、初めて「お客さん」扱いから「アメリカのレーシングライダー」となれたのかもしれない。
 
 レースというビジネスは結果が全て。だが、結果が出ればよいというだけでは味気ないものだ。「郷に入りては郷に従え」という言葉にもあるように、フィールドにいる人々の文化や考え方を理解したうえで振る舞うということは、本当の意味で豊かなビジネスを行ううえで不可欠のものなのかもしれない。
 
 「ハーレー・ダビッドソン」という存在がこうも別格のものであるということを知った1996年。それは、私にとって忘れられない1年として記憶に刻まれている。
 
 
──第8回に続く
(構成:編集部)
 
 
 「トップを走れ、いつも」
vol.7 「ハーレー」は「アメリカ」 

 執筆者プロフィール  

宮城光 Hikaru Miyagi

MotoGP解説者

 経 歴  

MotoGP解説者、元HONDAワークスライダー。1981年からオートバイレースを始め、1983年の全日本選手権(GP250クラス他)でチャンピオンを獲得。翌84年は同選手権F-1クラス(4ストローク750cc)に参戦し、またもチャンピオンを獲得。その後も主に全日本と全米選手権でHONDAワークスライダーとして活躍し、2000年からは4輪レースでも活躍。引退した現在はレース解説やモーターサイクル関連イベントの司会、安全運転講話、HONDAの歴代レーシングマシンのテスト走行などで活躍中。

 オフィシャルホームページ 

http://www.hikarun.net

 フェイスブック 

https://www.facebook.com/Bplus.jp#!/miyagi.hikaru?fref=pymk

 
(2014.12.17)
 
 
 

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