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牧歌が鳴っていた頃

 
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ito-taka / PIXTA
今から約13年前、前職で紙媒体の編集部にいた頃。帰宅途中に吉祥寺の飲み屋街に寄るのが日課だった。一階の立ち飲みカウンターで店の人に声をかけ、急な階段を上がって吹き抜けの二階に出る。行けば必ず会える面々が何人かいて、自分が一番のこともあるし、何人か先に来ていれば「おお」と言って迎えられる。日によって、明日はそんなに大変じゃないなと思う夜は残った2、3人で横丁の外れのおでん屋台に流れ、深夜1時まで飲んだりした。
 
屋台にはOさんという繊維商社勤務の男性が必ずいて、12時に行けば大抵はもう、丸椅子に沈み込んで、跳ね上げ式のカウンターに頬杖をついて眠っていた。「あれで3時に店じまいするとき帰って7時にまた起きて会社行くんだからすごいよねぇ」とは、屋台の店主のOさん評である。
 
Oさんほどでなくても似たようなルーティンの御大は他にもいて、若い仲間たちが健康を気遣ってかける声のかげで、多少年かさの筆者はひそかに、「明日まともに仕事になるのかしら」と訝しんでいた。御大の一人Yさんは会社では向かいの席の同僚に「今寝てたでしょ」とからかわれることがしょっちゅうとのことで、大企業の懐の深さに舌を巻いたものだった。
 
そして現在。人事労務管理の分野でアブセンティーズムとプレゼンティーズムが注目されている。前者は「遅刻や欠勤、早退など、何らかの健康問題で業務に就けていない状態(による企業の生産性損失)」のこと、後者は「出社しているものの、体調不良やメンタルの不調でパフォーマンスが落ちている状態(による以下同)」のこと。この文脈でいえば、翌日職場に眠気を持ち越すような飲酒習慣はプレゼンティーズムの一種だったはずだが、13年前はまだ労働の現場にも牧歌が鳴る余地が残っていた。
 
 

データヘルス計画、コラボヘルス、健康経営

 
ただ、今年を境にその余地がなくなりそうだ。経産省は現在、「データヘルス計画(第2期)」を進めており、今年6月に発表した「健康経営の推進について」の60ページで、施策の新たな展開として「これまで調査で問うていなかった業務パフォーマンス指標――アブセンティーイズム、プレゼンティーイズム、ワークエンゲイジメント(働きがい)――の測定の有無とその手法を問う」としている*1
 
順に整理すると、まず「データヘルス計画」とは、労働者の健康寿命延伸のため保険者が労働者に対して行う保健事業(定期健診や特定健診、保健指導、健康づくり教室等)に関し、診断結果や診療報酬明細書等のデータを活用して科学的にアプローチして事業の実効性を高めようという、経産省が厚労省と連携して進めている計画である。ここで保険者とは、労働者にとって健康保険の加入先のこと。大企業は業種ごとの健康保険組合、中小企業の場合は全国健康保険協会(協会けんぽ)がこれに当たる。データヘルス計画は2015年に第1期が始まり、2017年から新たに「コラボヘルス」がこれに加わった。
 
コラボヘルスとは、保険者と事業者がもっと連携・協力して保健事業を推進しようという、その意味で新たな取り組みのことである。従来は労働者の健康をめぐる保険者と事業者の関係といえば、特に中小企業の現場では、医療機関が定期健診の診断結果を事業者に、請求書を保険者に、それぞれ送って終わり、というのがありていな姿だった。保健事業を効率化する*2ために保険者(協会けんぽ)が健診結果を見ようにもうまく集まらなかったのだ。データヘルス計画でこの問題の改善が見込める。それによりコラボヘルスの取り組みがしやすくなる。
 
ここまで整理してやっと「健康経営」が定義できる。健康経営とは、「従業員等の健康保持・増進の取組が、将来的に収益性等を高める投資であるとの考えの下、健康管理を経営的視点から考え、戦略的に実践すること」*3。コラボヘルスが保険者目線での概念だったのに対し、こちらは事業者目線からの概念と言えるだろう。
 
 

陽の顔と陰の顔

 
事業者に率先して健康経営に取り組んでもらうため、経産省は2014年度から上場企業を対象に「健康経営銘柄」の選定を、そして2018年度からは大規模法人部門と中小規模法人部門に分けた「健康経営優良法人認定制度」の運用を、それぞれ始めている。企業にとっては一種の顕彰制度だが、投資家に向けては健康経営度合いを“見える化”して企業を評価する要素に加えてもらう狙いだ。
 
こちらが健康経営の“陽”の顔とすれば、“陰”の顔は保険者の財政問題である。2019年9月、健康保険組合連合会(健保連)は「今、必要な医療保険の重点施策-2022年危機に向けた健保連の提案-」と題した提言書を発表*4。労働者の平均年齢が上がり、生活習慣病の増悪や循環器疾患・がん等重篤疾病の増加とともに逼迫してきた健保財政が、団塊の世代が75歳に到達しはじめる2022年を境として急激に悪化することを報告し、危機感を促した。高齢者医療のため保険者が国民皆保険制度に拠出している、つまり保険料率の形で加入者の現役世代に負担してもらっている額(後期高齢者支援金や前期高齢者納付金等)が、元になる加入者の給与や賞与がほとんど伸びていないにもかかわらずどんどん増えており、2022年からさらに一段と加速するからだ*5
 
こちらの――陰の――資料を見渡す限り、データヘルス計画もコラボヘルスも健康経営も、正直な話、“焼け石に水”に思えてくる。それくらいインパクトが大きいのだ。現役世代に少しでも健康になってもらい医療保健を使わないようにしてもらい、それで節約したぶんを高齢者医療に回して高齢者を支える――。またしても「人口動態から見た日本絶望論」ではないか。
 
はっきりそうと言わないままで結局やろうとしていることは同じだから、どの資料どのテキストを見ても同じ感触の“奥歯に物が挟まった”感が残る。ありていに言えば中小企業の健康経営は取引先である川上の企業がどれだけ気前良く払うかにかかっているのであり、労働者に出した賃金は消費者総体の購買力として返ってくるのであり、健康経営銘柄などと眠いことを言う前にさっさと内部留保を吐き出させろ、と雑な憎まれ口を叩きたくもなる。
 
 

評価項目にはしない?

 
さてそれで、冒頭のプレゼンティーズムだ。健康経営推進の新たな施策として「業務パフォーマンス指標(アブセンティーイズム、プレゼンティーイズム、ワークエンゲイジメント)の測定の有無とその手法を問う」と予告した通り、今年度の「健康経営度調査」――「健康経営銘柄」選定と「健康経営優良法人」認定のための調査――は調査票のQ73で、Q18で回答した健康経営の課題と期待する効果に関し、どのように検証しているかの説明を求めている*6
 
「健康経営の推進について」は7ページ後の67ページで(評価項目にはしない。)とわざわざ但し書きしているが、さて。プレゼンティーズムもアブセンティーズムもワークエンゲイジメントも、いずれ投資市場からの圧力で評価項目に入るのではないか。その先はといえば、株主が労働者のプレゼンティーズムを逐一見つけては「ここをつぶせ! 生産性を上げろ!」と経営者に迫る『モダン・タイムス』そのままの世界だ。
 
翌日の眠気が牧歌として許容される時代はもう来ないのだろうか。
 
 
 
*1「健康経営の推進について」(令和4年6月・経済産業省ヘルスケア産業課)p60、67
*2 労働者の健康課題の抽出や健康リスクの層別化を行ったうえで、健康課題と個別の保健事業を紐づけて適切な保健事業を選定し、より効果的な予防および健康づくりに繋げることなどがこれに当たる。参照;『産業保健 21』第107号(2022年1月)より「データヘルスとコラボヘルス─その基本と実践─
*3「健康経営の推進について」p11
*4 「今、必要な医療保険の重点施策- 2022年危機に向けた健保連の提案-
*5 「財政悪化に直面する健康保険組合 加入者の健康にとどまらず持続性確保のためにもデータヘルスが重要」(大和総研リポート・2021年8月24日)
*6 令和4年度健康経営度調査票は昨年度から何が変わったか?変更点一覧まとめ(パソナ・健康経営コラム編集部 2022/09/05)
 
(ライター 筒井秀礼)
(2022.10.5)
 
 

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