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かつて“天才”と呼ばれた日本人ライダー・宮城光氏が語るオートバイレースの世界。自ら結成したチーム「アクション・スピード」で確かな結果を残してアメリカレース界からもその速さを認められることになった1995年シーズンを終え、次に向かった先とは──。
 
 
 自分のチームを結成し、メカニックたちを飛行機で移動させるかたわら、自らハンドルを握ってマシンや機材を運搬しながら全米を転戦していた1995年。私は忘れられない一言と出会った。アメリカのどこだったか──片田舎の町でパンクしてしまったトラックを修理しようと、小さな修理工場に立ち寄ったある日のことだ。
 
 「このトラックには何が入っている?」
 
 そう問う初老の店主に、私は「モーターサイクルだ」と答えたが、荷台を開け、中を一瞥した店主はおもしろくなさそうにこう言ったのだ。
 
 「『モーターサイクル』なんてどこにも無いじゃないか」。
 
 全米レース界で徐々に「台風の目」として認められつつあった私たちのチームのホンダ・CBRは、確かに荷台の中にあった。それが「ハーレー・ダビッドソン」でなかったというだけの話だ。
 
 

「アクション・スピード」の終焉

 
 1996年の春。私は「経営」が、レース以上に難しかったことを知った。
 1995年に立ち上げた私のチーム「アクション・スピード」は多くの人の助けを得て、ホンダワークス、そしてかつての所属チームにして「準ワークス」とも言えるエリオン・レーシングとも競り合い、アメリカのレース界でも存在感を認められたという自信があった。しかし・・・「組織を存続させること」という大切なミッションを遂行できなかった点で、私は「経営者」として失格だったと認めざるを得ない。活動資金は1年でほぼ尽きてしまったし、アメリカホンダからのサポートが打ち切られたのもそれに追い打ちをかけた。
 
 私たちのチームが残せたものがあるとすれば、薄給でも「プロ」としての誇りだけを糧に奮闘してくれたメカニックたちが、それまでの経験を糧にステップアップをしていってくれたことだが(今でもAMA・プロレーシングの第一線で活躍している者も多い)、チーム「アクション・スピード」の挑戦は、1年限りで終焉を迎えることになってしまったのだった。
 
 万事休すか、という状況でまたも救いの手をさしのべてくれたのは、これまでも公私ともに私を気に掛けてくれていたアメリカスズキのアキ・後藤さんだった。アメリカレース界の重鎮たちとも交流のある同氏が、私に興味を持ってくれるいくつかのチームを紹介してくれたのだ。前年から「その気になったらいつでも来てくれ」と言ってくれていたアメリカスズキのチームの他に、ヤマハ、カワサキのマシンを使うチームもあった。
 
 だが、デビュー以来ずっとホンダのバイクに乗り続け、「ホンダ」が「モーターサイクル」とほぼ同じ意味を持つほどだった私にとって、レースを続けるか、やめるかの瀬戸際になってもなお、「ホンダ以外のバイクでレースをする」ことへの抵抗感は根強かった。
 そんな私のことを慮ってか、アキ・後藤さんが提案してくれたのは、ハーレー・ダビッドソンのバイクでレースをすることだった。そのとき、ずっと心のかたすみで留まっていた、修理工場の店主の声を聞いたような気がした。
 
 ──モーターサイクルなんて、どこにも無いじゃないか──。
 
 

元・ホンダワークスライダーから、「モーターサイクル」ライダーへ

 
 「モーターサイクル」でレースをすれば、もっとアメリカが見えてくるかもしれない。そう考えた私がアキ・後藤さんの紹介のもと契約したのは、マリナ・デル・レイに本拠地を置く、カリフォルニア最大──すなわち全米最大級のディーラーである「バーテルズ・ハーレー・ダビッドソン」だった。
 その販売実績とブランドへの貢献度から、ハーレー・ダビッドソン本社に対しても絶大なる影響力を持つビル・バーテルズが経営するこの店では、カスタムしたバイクは最低5万ドルから(上は青天井だ)。カスタマーリストには、ハリウッドスターをはじめとしたセレブリティの名前がずらりと並ぶ。「ハーレー」というものを知るには、これ以上無いほどの場所だったと言える。当然、ハーレー・ダビッドソンのレース活動においても、中心的な存在だった。
 
 レーシングチームを率いるのは、ジェイ・スプリングスティーン。キャリア、実績、人間性──あらゆるものが素晴らしく、アメリカでダートトラック──未舗装のオーバルトラックを周回するレース──の「神」としてあがめられている存在だった。私は、このチームの「ロードレース部門」で、のちにドゥカティのワークスライダーとなるベン・ボストロム、こちらもカワサキのワークスライダーとなるエリック・ボストロム兄弟らとともに、スポーツスター883で「プロツインクラス」のレースを戦うことになった。
 
 チームの運営面を取り仕切るのは、いかつく、独特の──ここには書けない類いの──言葉遣いをするベトナム戦争元海兵隊員のリック。メカニックのリーダーはZZトップのような風貌のアール。「超」が付くほどに巨大なトレーラーへ私とボストロム兄弟、カスタマーライダー2名のメインマシンとスペアマシンの計10台、これに加えて台数分のスペアエンジンとスペアホイール、その他補修パーツを積み込んで移動する様は、まさしく「全米一のハーレー・ダビッドソンディーラー」の名に恥じない堂々たるものだ。
 チームの雰囲気は、これまでに知っているどのチームとも異なっていた。
 
 
 
 
 
 
 
 

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