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経営者インタビューEXECUTIVE INTERVIEW

常に新たな挑戦を続ける
封筒や印刷物製造の老舗

 

封筒から紙製品の製造、印刷業まで手がける

 
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原田 あらためて、白石封筒工業さんの沿革について教えてください。
 
白石(博) 弊社は私の祖父が創業し、私で3代目になります。社名の通り、封筒の加工製造専門業者として設立しました。当時は従業員が手作業で紙を折って糊付けして加工し、一人につき1日に1万枚を手貼りしていたそうです。
 
原田 すべて手作業とはすごい! まさに熟練の職人技だったんでしょうね。
 
白石(博) ええ、現在ではなかなか考えられない速さだったと思います。その後、昭和に入って大阪市平野区に工場を建設し、九州や山陰、北陸地方などにも販売網を広げるなどして事業が発展しました。しかし、戦争によって当時の本社は焼失。戦争から帰ってきた父が2代目として会社を受け継ぐと、封筒の加工だけではこれからの時代を生き残るのは難しいと考え、活版印刷機を導入して印刷業を行うようになったんですよ。
 
原田 白石社長も社会人となってすぐに家業に入ったんですか?
 
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同席した取締役営業部長の白石晃規氏
白石(博) いえ、私は大学卒業後、印刷業大手の大日本印刷株式会社に入社しました。そこで当時の上司から印刷業界のいろはを教わり、仕事のノウハウを学んだんです。1970年代になるとオイルショックの影響や父が戦時中に目を悪くしていたこともあって退職し、弊社に入って父の仕事を手伝うようになりました。その後、大日本印刷からの業務の委託を受けつつ、会社の売り上げも伸ばしていったんです。
 
原田 大手企業で培った経験や、人とのつながりが生きたわけですね。
 
白石(博) おっしゃる通りですね。それから、1985年に父の逝去に伴い36歳で社長に就任しました。さらに弊社の転機となったのが、1990年に開催された「国際花と緑の博覧会」、通称「花博」だったんです。会場で使用する数種類のさまざまな封筒を大量生産するために、機械設備や人材の確保などに大きな投資を行いました。さらに、父の代ではほぼ印刷業専門だったところ、創業当初のように封筒や紙製品の製造も再び手がけるようになったんです。