周囲の反対を押し切り40歳で農業を始める

インタビュアー 狩野恵輔(野球解説者)
中塚 私の生家は小さい田んぼで米づくりをしている兼業農家でして、私も子どもの頃から手伝いをすることもありました。ただ、工業高校を卒業後、就職したのは設計事務所だったんです。工場設備の設計を手がけ、3年後には独立して自分の事務所を構えました。ただ、設計の仕事はとてもハードでして、深夜まで働き詰めの日々が続き、30代半ばから「このままではダメになる。自然の中で暮らし、農業で食べていきたい」と考えるようになったんです。
狩野 私の実家はこんにゃく農家で、朝早くから畑に出て泥だらけになって農作業をする父を見てきました。私も時々手伝うことがありまして、団らんの時間もなかなか取れない農業は本当に大変な仕事だと感じていたんです。中塚社長に迷いはなかったのでしょうか。
中塚 当然、何年も悩みましたし周囲の人たちからは大反対されました。それでも意を決した私は40歳のときに、設計の仕事も続けながら兼業農家として農業をスタートしたんです。ただ、就農後も厳しい状況は続きました。質の高い作物を出荷すれば十分に生活できると考えていたのですが、兼業農家で収穫できる量はたかがしれていますからね。
狩野 それでも、歯を食いしばって土と向き合う中塚社長の姿が目に浮かぶようですよ。
中塚 ありがとうございます。おかげさまで少しずつ田畑を増やし、設計の仕事も辞め専業農家になることができたのは2015年のことです。それまでは一人で農作業をしていたものの、若い人の面倒を見てほしいと紹介される機会が増えたこともあり、弊社を設立しました。
狩野 中塚社長の農家一本で行こうと決められた覚悟を感じますね。現在、栽培している作物の種類を教えてください。
中塚 弊社は兵庫県の名産でもある酒米・山田錦を中心に、黒大豆やアスパラガスを生産しています。このエリアの土地は米以外の栽培にあまり適していないので、山田錦のさらなる品質向上にも挑戦し、より高品質な酒米をより多く出荷したいと考えているところです。