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スペシャルインタビューSPECIAL INTERVIEW

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尊敬する先輩の後を追って全力で働いていた矢先、支局が閉鎖されることになり、櫻井氏は独立を決意する。「ペン1本とノート1冊持ってどんなところにも取材に行き、どんな権力にも財力にも屈せず、署名入りの記事を書く」――武者震いするような気持ちだった。
 
 

「プロセスを踏む」ことの意味

 
 私の署名記事第一号は、アジア新聞財団(PFA)に採用された「草魚の稚魚の放流」です。1974年でした。取材費との収支は大赤字でしたが、「YOSHIKO SAKURAI」と署名が入ったイラスト入りの記事を見て飛び上がるくらい嬉しかったのを覚えています。
 
 過日、埼玉県の羽生市に行くことがあったんですね。新幹線で熊谷まで行って、そこから車に乗り換えて。遠いですよね。そうしたら、まさに羽生市は、私がフリーになって初めての取材で来た地域だったんです。何十年も前のことで忘れていましたけど、水産研究所が加須市にあり、その隣が羽生市です。当時の私は普通の電車で行ける駅まで行って、バスでまた行けるところまで行って、そこから研究所までトコトコ歩いた記憶があります。研究所に着いたら着いたで、手に入る情報は全部取るつもりで、孵化を研究している学者を質問攻めにしてね(笑)。私、半日ぐらい現場で過ごしたんですよ。今だったら、魚の孵化にあれほどの取材は必要ないのもわかりますし、立ち回りも含めていろんなことが目に付いて、思い出すとおかしいくらい(笑)。
 
 でもね・・・、あれがやっぱり、よちよち歩きの、幼稚園生の物書きがやるべきことだったんだなって思います。そんなプロセスを何十回何百回と踏んで、物書きというのは育っていくものなんでしょう。あの時の自分にもう一度会ったような気がしました。
 
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雇用の慣習も制度も揺らぎ、〈職〉と〈個人〉が必ずしも一義的に結びつかなくなった現代。だからこそ櫻井氏に聞いてみたいことがあった。著書にある「何となく、あぁ自分は大丈夫だ、と思えた瞬間がありました。‥中略‥『これでもう大丈夫、ちゃんと生きていける』とストンと腑に落ちてきた」という感覚についてだ。
 
 

信頼できる自分であるために

 
 30代の本当に初めなんですね、その感覚を自分の中で味わったのは。その頃の私は貯金もなし、勤めてませんから年金も誰かが払ってくれるわけでなし。すごく無防備な状態でした。それでもその感覚を持てたのは、一つひとつの仕事にベストを尽くしてきた納得感があったからだと思います。本当の意味で自分が自分を信頼できるようになるための土台ができたんですね。
 
 それから、貧乏生活でも親に頼りませんでした。ただし、先輩には助言をあおぎました。ご飯やお酒をおごってもらったり、仕事上で客観的な意見を求めたり。先輩との関係性は独特のものがあったと思います。“甘える”というのとはちょっと違うんです。助言してもらう、つまり、ある意味、頼るということは、先輩が私を鍛えることでもあります。でも、自分が「左のほうが正しい」と思えば、先輩が右と言っても絶対に左に行く。いろいろ教えてもらいながらも、べったりとついていくことはないという緊張感を常に持っていました。
 
 若い頃は自分が知らないことを先輩がたくさん知っています。だから先輩と議論するのはすごくいいこと。ふっかけたらいいですよ。ええ、いくらでも。私も気の強い後輩でした(笑)。また先輩は、それをめんどくさがらずに受けてくれました。けれどそうすることが先輩にとってもよいことだったと思います。なぜなら、後輩の話すことの中には、自分が思いもつかなかったような視点が、必ずありますから。人間は誰からでも、いつでも学びうる存在です。扉を開いておくことが大事ですね。
 
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