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経営者インタビューEXECUTIVE INTERVIEW

伝統の製紐技術を応用し
ものづくりの新市場拓く

 

苦しさよりも楽しさが勝るものづくり

 
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吉井 工場を見せていただきありがとうございました! ところで、中山社長はおいくつの時からこの仕事に携わっておられるのでしょう。
 
中山 31歳の時からです。ここは、妻の祖父が始めた工場でしてね。義父が継ぎ、私で3代目。妻と交際を始めてこちらに遊びに来た時、紐の華やかさに興味を覚えて弟子入りを願い出たんです。男の子に恵まれなかった義父は自分の代で廃業しようと考えていたらしいのですが、「もったいないから」と説得して跡を継ぎました。
 
吉井 そのような経緯があったんですか。奥様もさぞ喜ばれたでしょう?
 
中山 それが、当時勤めていた会社で働き続けてほしい、と言われました(笑)。妻は自営業の不安定さをよくわかっていたのでしょうね。でも、経営の苦しさより「ものづくり」への興味のほうが勝りました。
 
吉井 その後、事業をヘアゴムの製造に転換されたのはどのようなタイミングで?
 
中山 1996年頃からです。取引先から画期的なヘアゴムの製法がないだろうかと提案をされ、義父と「これを何とかモノにしよう」とヘアゴムに着目しました。工場でお話ししたように、すぐに満足のゆく商品ができあがったわけではありません。売り上げの柱となる製品を手がけながら、かたわらで商品開発を行い、当時は寝る間もないほどでした。枕元にメモを置き、思いついたことはいつでもメモできるようにして休んでいたものです。
 
吉井 商品開発の熱意に頭が下がります。でも、よくお身体をこわされませんでしたね。
 
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研究に研究を重ね、独自の製法で高品質なヘアゴムを手がける
中山 それが、49歳の時に大腸がんを患ってしまいました。うまくいかないと、かえって征服欲がわき起こる性格なので、気分的には楽しかったのですが、さすがに身体は悲鳴を上げていたのでしょう。判明した時には進行していましてね。さすがに宣告を受けた時は怖じ気づきましたが、父親としても工場の後継者としてもやるべきことがたくさんあると思い、手術を即決しました。入院中も、工場の機械が壊れたと聞くと病院を抜け出して修理に来たことも。折もおり、子供がそれぞれ高校、中学、小学の卒業と進学を控えて大変な時期でしてね。家のことは妻に任せっぱなしで、妻にはとても感謝しています。
 
吉井 私は大病を患い、自暴自棄になったこともありました。仕事も軌道に乗りかけていたので、「何で私だけが」と。でも、兄に「生きていないと仕事もできない。焦らないでいい」と言われて目が覚めたんです。病気になって「人間は周囲に助けられて生きているんだ」と実感でき、人付き合いも上手になったように思います。