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コラム 今、かっこいいビジネスパーソンとは vol.2 勘違いしない理解力 今、かっこいいビジネスパーソンとは 首都大学東京教授/社会学博士

コラム

今、“かっこいい”ビジネスパーソンとは
第2回 勘違いしない理解力
 

「揺るがない」ことと「他者性を欠いている」ことはまったく違う

 
 日本人が周囲の他者たちの視線を意識して右往左往しがちであることを前回お話ししました。神の揺るぎなき視線を意識しないことが背景なのだとも言いました。でも昔の日本人のほうが、いまよりもずっとどっしりしていました。昔のほうが社会的流動性が低かったので、周囲の視線を自明なものとして想像できたからです。
 今はそうではありません。新住民として知らない土地に住んだり、見ず知らずの人たちが働く会社に入ったり、その会社も昔は終身雇用・年功序列の共同体みたいだったのが、人の出入りが激しくなったりして、周囲の視線を想像することが難しくなりました。そうなると、昔と同じような対人能力しか持たない場合、不安で右往左往するようになります。
 前回、こう言いました。《個別の現実にベタに対処するのでなく、個別の現実の背後に一貫して流れている摂理に照らして生きること。それが日本人にも可能な、ヘタレでない生き方だ》と。経験を通じて、多様な他者たちの視線をそれぞれ想像できるようになった上で、世の中だいたいどんな視線の分布になっているのか想像できるようになるのが、いい。
 多様な他者たちの視線を自由自在に取れることを、社会学では「他者性」を有すると言います。「他者性」を備えるために重要なのが、ごっこ遊びなどによって身に付く役割取得(ロールテイキング)の能力。他者から何がどう見えてどう感じられているのかを理解する力のことです。「揺るがない人」とは、この意味での他者性を備えた人のことです。
 他者たちの評価を一歩踏み込んで全体的に理解できる人は相手の個別の反応に一喜一憂しない。逆に「他者性」を欠いた人こそ、他者の言葉や評価に過剰に反応して右往左往し、反応する意思さえも放棄して固まっていたりする。インターンシップの現場で、周囲が自分に何を求めているか理解せず、デクノボーのように突っ立っている若者の例がそれです。
 彼らがそうなってしまう原因のひとつに子ども時代の経験があります。子どもは子ども社会で揉まれる経験をしながら成長します。子ども社会での集団遊びは「他者性」の習得に有効です。でも子ども社会は大人社会の反映です。大人社会が空洞化すれば、喧嘩にいちいち介入したりして子ども社会も空洞化し、ロールテイキングの訓練も不可能になります。
 僕は子どもの頃に転校が多くて、小学校だけで6回も学校を変わったんですが、2回目の転校からは「自分は転校が得意なんだな」と思うようになりました。「今までの学校ではこのモードだったから、新しい学校ではこのモードでいってみよう」などと客観的に自分のことを考えられるようになったんです。転校が、僕にとって重要な訓練になりました。
 また、転校先で僕を助けてくれたのはヤクザの子どもたちでした。先生や地域の人たちにとって鼻つまみものだった彼らは、僕にとっては鼻つまみどころか頼れる温かい存在でした。「僕が知っている彼ら」と「世間が見る彼ら」との間にはギャップがありました。だから、人からどう見えるなんてことは人によって全く違うことを、学ぶことができました。
 それと、僕は早生まれだから、学年の中では発達が遅いほうの子どもでした。だから小学校3.4年生ころまでは、自分のことを弱くてダメな存在だと思っていたんです。ところが5年生になるころから成績や運動神経が上昇して、リレー選手や学級委員に選ばれるようになりました。すると友達や先生の扱いが変わるわけです。
 自分の意識としては相変わらず弱い、ダメな子どものままなのに、パフォーマンスが上がったというだけで周囲の目は変わるんです。それ以来、自分への他人の評価を、距離を置いて受け入れられるようになりました。簡単にいえば、他人の前での自分のことを「仮の姿」だと思えるようになりました。
 ちなみに、高2年ではまったく勉強しなくても麻布高校の実力テストで20番前後だったのですが、高3になって授業に出席せずに映画ばかり見るようになったせいで、成績が一気に130番台に落ちました。すると今度は周囲の扱いが「こいつは落ちこぼれ」に変わりました。もちろん成績の変化に関係なく同じように接してくれる友人もいました。
 そんなことがあって以来、他者の視線に一喜一憂することのバカバカしさを知りました。具体的な他者の視線なんて所詮そんな程度のもの。バカ相手に一喜一憂しても仕方ない。重要なのは、自分を深く理解してくれる、ホームベースになるような他者の存在だけ。2ちゃんねるの書き込みに一喜一憂するのは、そうした他者がいない「不幸な人」だけです。
 
 

ひとかどの人間になること

 
 不思議なことに、鈍感だからではなく、逆に「他者性」に敏感だからこそ、具体的な他者の眼差しに一喜一憂しなくなると、他人を感染させる力、つまり、ミメーシスを起こさせる力が備わってくるようになります。テクニックを習得して引き起こす感染もありますが、それとは違って、こうした感染だけがホンモノなのだと思います。
 僕は気に入った学生にはナンパ修業を薦めていると言いましたね(7月号スペシャルインタビューP3参照)。ナンパを継続するには、具体的な相手のno!に一喜一憂しないことが必要ですが、一般に一喜一憂を回避するには二種類の戦略があります。一つは、確率論的発想をするという戦略。もう一つは、ひとかどの人間になるという戦略です。後者が、ミメーシスに関係しています。
 前者は「歩留まりを割り出して勝負する戦略」です。そこではナンパの失敗という個別の否定的結論はさして重要ではない。同じ方法を反復して、歩留まりが2割なのか4割なのかが重要です。こうした歩留まり計算ができるようになると、一喜一憂からは自由になりますが、同じ理由で成功から得られる喜びも希薄になります。だから、やがて飽きます。
 他人にミメーシスを引き起こす「ひとかどの人間になる戦略」は、いま話したような「誘惑術」ではありません。ひとかどの人間になれば、当たり前ですが、何事につけyesと言って貰える確率が上がります。むろん当人は確率論的計算などせず、普通にしてるだけです。これだとyesと言ってもらえるだけでなく、大きな喜びと、強い絆が得られます。
 ナンパ修業には、歩留まりを上げるテクニックを習得する「初心者段階=歩留まり段階」がありますが、相手から「他の女にも同じようにやってるんでしょ」とコミットして貰えない寂しさを味わったり、「あの高嶺の花だった女もこんなことでオチルのか」という落胆を味わったりするのが、イヤならば、「上級者段階=ひとかど段階」に移行するべきなのです。
 ひとかどの人間になるには、経験を積むこと、特に失敗を重ねることが必要です。人生のどの段階でそれに気付くかは人それぞれでしょうが、できるだけ若いうちに気付くのがいい。いくら失敗しても取り返しがつく(と思える)からです。いずれにせよ、右往左往するヘタレは相手からリスペクトされず、他者にミメーシスをもたらすこともできません。
 
 
 
 

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